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キラキラレコードの歴史を紹介するページです。
15年の間には結構いろいろなことがありました。外部の人にとってはたいした意味もないことかもしれませんが、当事者にとってはかなりの大河ドラマ的なものだったりするわけです。ですので、ちょっと詳細に紹介してみたいという気持ちもありつつ、それをやっていたのでは全体のリニューアルが遅れるという現実にも直面しているわけで、ちょっと不完全なままアップしちゃいます。近い将来に細部を詰めていきますので、ときどきチェックして見ててください。
(2006.3.30更新。まだまだ細かくやっていきます!)
キラキラの20年

1. 法人化前(1985〜1990)
  湯原と大島、謎のお笑いフォークバンドFashion Band Memeを結成(1985)
  中学時代からの友人である大島と湯原によってお笑いフォークバンドFashion Band Memeを結成。ライブハウスや全国ツアーライブなど、それなりに派手に活動。
ホールコンサート、全国4ケ所ツアー実施(1988)
  右も左も判らず、全国でのライブツアーやホールコンサートを決行。チケットをぴあで売ったりするが客も入らず、赤字に次ぐ赤字に凹む。ライブのDMを作るために手作業の連続。上馬のジョナサンで1日中作業に没頭し、1回も店外に出ることなく3食を注文したりしたのはこの頃。
大島、ビクターに入社(1989)
  折しもバブル絶頂の頃、「昼飯が出る」につられて行った面接で大島がビクターレコード社員に内定。
Fashion Band Meme、CDをリリース(1900)
  友人(ナゴムからデビューしていたミュージシャンでしたね)から借りた4チャンネルのカセットテープマルチトラックレコーダーを駆使し、知合いが経営する喫茶店の閉店後にレコーディング。
レコード店に流通を断られる(1900)
  大島がビクターの営業マンとして知り合った新宿のレコード店に商品を持ち込むも「個人との取引は出来ないんだよ」と断られる。売り言葉に買い言葉で「じゃあ、会社にすればいいんですね」と切り返す。退くに退けない状況になる。

2. 創成期(1990〜1993)
  法人『有限会社キラキラレコード』設立!(1990)
  まだビクター社員だった大島が専務に。当時パチプロだった湯原が代表取締役社長に。
頭を下げまくって資本金を友人に借り、資本金預入証明書を出してもらうために銀行に現金で持っていくも「審査が必要なので」とか言われ、切れそうになる。これまた知合いのオヤジから信用金庫の営業マンを紹介してもらい、無事資本金預入証明書を出してもらえることとなり、法人登記を完了する。
大島、ビクターを退職。キラキラ一本で本腰(1992)
  大島がキラキラの専務でありながらビクターの社員であることに限界を感じ、ビクター退社を決意。先の見通しなどまるでなく、無謀の一言。しかしかなりの高揚感を覚える。
社長の湯原、結婚する。(1992)
  おめでたいことだが、なにも大島が失業同然の最中でなくとも...。ごく僅かな退職金がすべて御祝儀に消える。この時期、大島は3週連続で欠席するわけにはいかない結婚式に出席。嬉し泣きの日々。
Southside Mamaとの出会い。全国ツアーなど頑張る。(1992)
  初のオムニバスアルバム『卵』の発売を機にロックバンドSouthside Mamaと出会う。全国ツアーなどで年間80本近くのライブをこなす。とにかくライブがかっこいいバンドであり、初期キラキラを代表するバンドだった。知る人ぞ知るロック怪人イノマー氏もSouthside Mamaのファンで、それが縁で大島と知り合う。

3. 発展期(1994〜1997)
  金谷ヒデユキとの出会い(1996)
  たまたまビクター時代の先輩と東高円寺の吉野家でバッタリ出くわす。「金谷ヒデユキのプロデュースやってるんだけれど、プレスやってる会社知らないか」と尋ねられ「じゃあ自分のところでやりましょう」ということになり、そのまま事務所へ。偶然に偶然が重なった奇妙な出会いであった。ここからなんとなくそれまでの活動とは違うレーベル運営が始まる。
ボキャブライベントで全国を回る。(1997)
  当時大人気だったボキャブラ天国のイベントで全国を回る。半分マネージャーの仕事も兼務し、実質は各会場でのCD販売に明け暮れる。この年は山手線に乗るより新幹線と飛行機に乗る回数の方が多いくらいの状態になってしまう。
金谷ヒデユキ,渋谷La-mama ライブ(1997)
  金谷ヒデユキがとにかくロックなライブを渋谷La-mamaで決行。対バンのサポートで来ていた名キーボーディストkyon氏も参加してセッション。口にするも恥ずかしい歌詞を無理矢理コーラスで歌わせて顰蹙を買う。しかしkyon氏の演奏はとてつもなく素晴らしく、一同感銘を受ける。そのセッションの模様は弊社商品の初ビデオ『MUSIC LIFE』に収録。この日、リハの最中にパリでダイアナ妃が亡くなった。
金谷ヒデユキ、新宿Power Station ライブ(1997
  当然なのか無謀なのか。それはいまだに判らないけれど、金谷ヒデユキにとってもキラキラにとっても大きなチャレンジとなった新宿PowerStationでのワンマンライブをおこなう。ビジネス的には満足いくものとはならなかったが、そういうチャレンジによって金谷本人も仲間のミュージシャンも、そしてスタッフとしてのキラキラ大島も、確実に成長するんだなということを感じることが出来て、非常に意義のあるイベントだった。

4. 頑張期(1998〜2001)
  オフィスを構える〜初の社員募集(1998)
  新宿区西早稲田にオフィスを構える。これまでバンドとの打合せといえばファミレスだったのが、自前のオフィスで打合せが出来ることに感激する。オフィスの引渡しの日に友人と長野オリンピックを見物に行ったりした。その後の家具運び入れなども原田大ジャンプなどをテレビで見ながらやってました。
キラキラ☆ナイトがスタート(1998)
  キラキラレコードの新人発掘の基礎となっているライブイベント「キラキラ☆ナイト」が阿佐ヶ谷アピカでスタート。
大正九年がブレイク(2000)
  1998年に『最新式ひるね百科』でデビューした大正九年がセカンドアルバム『九階に在る食堂』でブレイク。JAPANのインタビューを皮切りに、各種メディアに露出したり、各種イベントにも参加しまくる。
大正九年を巡ってトラブル発生(2000)
  大正九年の素質に目をつけたフジパシフィック音楽出版が共同でのプロデュースを提案。契約寸前の時点で突然某S社(超大手メジャーレーベル)のディレクターが大正九年本人に誘いをかける。本人かなり動揺する。キラキラとしても板挟みになり大変困った状況ではあるものの、2年以上前に発掘したアーチストが、音楽出版の最大手とレコード会社の最大手とが綱引きをしているという構図に誇らし気な気分になる。結局、当初のとおりフジパシフィック音楽出版と共同でプロデュースをすることに落ち着く。
MINX ZONE、オレンジ☆プランクトン、ハム人間が立て続けにデビュー(2001)
  その後長い付き合いとなる3つのバンドが連続してデビュー。簡単に活動を諦めたりするバンドが多い中、彼らの活動は実に堅実でしっかりしていた。根性の座ったバンド達との仕事は気持ちがいいものだと言うことを肌で感じる。

5. 苦闘期(2002〜2005)
  キラキラカフェをオープン(2002)
  オフィスの1階にあった第一勧銀のキャッシュコーナーが撤退したのを機に、スペースを借り、カフェをオープン。内装に金を掛けずに済むように、ほぼ全ての工事を大島自身がこなす。ほぼ3ヶ月間1階スペースに泊まり込み徹夜の工事。毎日のように昼はレーベルの仕事、夕方からホームセンターに工具や木材などを買いに行き、深夜に工事というハードな日々を過ごしたおかげで、4月3日に無事オープンの運びとなった。
大正九年、VAPよりメジャーデビュー(2002)
  キラキラレコードで3枚のアルバム、4枚のシングル、1本のビデオをリリースして人気を博した大正九年がVAPより「KYU-BOX.」でメジャーデビューを果たす。
CUBEのシングルをリリース。(2002)
 

某アイドルグループで中心的存在の○○の実の妹と兄が参加しているダンスボーカルユニットCUBEのシングルを2枚リリース。七光り的な部分はあるものの、さすがに全国規模の売上を示す。福岡を中心に活動していたのだが、福岡でのイベントではものすごい数の女の子達が集まり、普段のロックバンドのイベントとは明らかに違う雰囲気にちょっとたじろぐ。しかし○○の関係先より横槍が入り、アルバムをリリースするまでに至らずに終わってしまった。

サンダルバッヂ、ユニバーサルよりメジャーデビュー(2002)
 

オムニバス「WAY-OUT」に参加したサンダルバッヂがメジャーデビュー。彼らとはキラキラでアルバムをリリースする話を進め、プロモーションビデオをキラキラが制作していたところ、そのビデオがユニバーサルの目にとまり、メジャーデビューの話が決まる。そのビデオを使いたいということで「思ヒ空」がメジャーデビューシングルに決まる。大島はその後彼らのビデオを数本制作することに。

元ドックオブベイの山口隆、サンボマスターでメジャーデビュー(2003)
  2000年にCDリリースしたドックオブベイのギタリスト、山口隆を中心としたロックバンド「サンボマスター」がソニーよりメジャーデビュー。
渋谷O-WESTでライブイベント「俺フェス」を開催。(2005)
  より高い目標に向かって努力するという主旨のイベント、俺フェス2005を渋谷0-WESTで開催。600人という定員の渋谷O-WESTが、満員とは言わないまでもかなりの盛上りとなる。
渋谷AXでライブイベント「俺フェス」を開催。(2006)
  渋谷AXでライブイベントをそれぞれ行う。バンドにとってもチャレンジだし、キラキラにとってもチャレンジなイベント。高い目標に向かって初めて出せる力というものがあることを実感する。それにしても渋谷AXは広かった。5組出演なのに楽屋が余った。ワンマンをやっている場合はどうしてるのだろう? 多分、コワそうなスタッフたちがふんぞり返ってるんだろうなと、想像。

6. 試行錯誤期(2006〜2010)
  キラキラカフェをクローズ(2006)
  4年間続けてきたキラキラカフェ、赤字のためやむなく閉店。4年で1000万円程度のマイナスに。大学生中心の立地条件のため、大学が年に5ヶ月も休みになるのが痛かった。
天空快の夏ツアー、怒濤の39公演(2007)
  2004年のデビュー以来活躍してきた天空快の夏のツアー「新幹線に乗りたい」が39カ所という異例のボリュームとなり、夏すべてを青春18切符で移動する過酷な旅を敢行。
有刺鉄線デビュー(2007)
  キラキラナイト史上最高の動員をたたき出し、有刺鉄線が期待を集めてインディーズデビュー。あまりの店頭予約が集まり、新宿タワレコで試聴機に。
大島遂に結婚(2008)
  ずっとキラキラレコードに打込んできた大島がとうとう結婚。秘密裏に交際していたため、周囲もまったく知らず、親兄弟や社長の湯原まで驚く。2月に無事、京都下鴨神社にて挙式。
有刺鉄線分解、NTTドコモCMを逃す(2008)
  音楽に超本気の山崎(G)と他メンバーの間にあった温度差が広がり、9月のワンマンを最後に3人脱退。1人となった山崎は田舎に帰ることを真剣に考えたものの、諦めきれずにメンバー募集を決意。ベースとボーカルが決まり、のんびりやろうと思っていたところに、CM会社から「ドコモのCMで曲を使いたい」との打診。しかし新ボーカルユーセフによるデモさえない状態で、プレゼンも出来ず、話は立ち消えに。「いつチャンスが来ても対応出来るようにしていないとダメなんだ」と固く決意し、常に全速力で活動することを誓う。
キラキラ☆ナイト、終了(2009)
  1998年夏以来続けてきた新人発掘ライブイベントのキラキラ☆ナイトが終了。全部で200回を超えるこのキラキラ☆ナイト終了を機に、新人発掘の方法も大幅に改革される。
リリースラッシュ、32タイトル(2009)
  激しくリリースしたいんだとの決意新たに取り組んだ結果、キラキラ史上最高の年間32タイトルのリリースを行う。玉石混淆する中、次の柱となれそうな存在もチラホラ出てきつつある。
STONE FREE、有刺鉄線、立て続けにロッキンオンジャパン登場(2010)
  前作の売上げが好調だったSTONE FREEと有刺鉄線が、2月3月と立て続けにリリース。それに伴い有名音楽雑誌ロッキングオンジャパンにインタビューを掲載される。結果を出せばそれに見合った状況が生まれるを地でいった2組が頭角を現してきたことが、とても嬉しい。